2011年8月18日木曜日

パトリオティズム―左翼の愛国心

 先日『パトリオティズムとナショナリズム―自由を守る祖国愛』(マウリツィオ・ヴィローリ著)という書籍を読んだ。パトリオティズムというと郷土愛のようなものを指すと思っていた私にとって、この書籍の中で語られるパトリオティズムの定義は新鮮であった。

 曰く、パトリオティズムは社会的、文化的、宗教的、あるいは民族的な同質性を必要としない、共和政体と公共の自由を愛する思想である。自由を愛し自由を守るために共和政体を維持していこうとする思想である。そしてこの思想は、文化的・民族的同質性を推し進め、排他的になりやすいナショナリズムとは対極にあるものだという。かくして著者はパトリオティズムを右派・ナショナリズムに対峙する左派の論理として位置づける。

 このようなパトリオティズムの定義は私にとって新鮮であったが、同時にデジャビュも感じた。というのも、この種の議論は実はナショナリズム研究においてもなされてきたからである。いわゆる“シビック・ナショナリズム”というのがおよそ著者のいうところのパトリオティズムに近いだろう。シビック・ナショナリズムは文字通り、“市民としてのナショナリズム”であり、それは文化的・民族的同質性に基づいた共同体ではなく、自由や平等といった理念あるいはそうした理念を体現した憲法などに基づいた政治的共同体を支えていこうとする思想である。例えば、アメリカのようなさまざまな文化的背景を持った人々が集まる国家を想像すればよい。そこでは文化的・民族的同質性を持っているかどうかではなく、自由や平等といった理念に賛同できるかどうかが重視される。そしてそうした理念によって国民のアイデンティティーが形成されている。したがって、どちらの言葉遣いが正しいのかはわからないが、シビック・ナショナリズムとパトリオティズムというのはほぼ同義だと考えてよいだろう。

 しかしながらここである疑問が生じる。自由を愛し自由を守るために共和政体を維持していこうとするパトリオティズムは果たして可能なのかという疑問だ。それは突き詰めていけば、社会的、文化的、宗教的、あるいは民族的な同質性は本当に必要ないのかという疑問に他ならない。さきほど私はシビック・ナショナリズムの例としてアメリカを挙げたが、これには続きがある。それはシビック・ナショナリズムに対する批判である。つまり、アメリカでは個々の文化的多様性を保ちながらも理念の下に国民が統一しているようにみえるが、実際には学校での歴史教育などを通じて彼らはアメリカ人に“なる”ことを意識的にせよ無意識的にせよ強制されているのである。シビック・ナショナリズムに対してこのような批判がなされている。ここからいえることは、結局のところ共同体が結束するには多かれ少なかれ文化的・民族的同質性が要求されるということである。

 翻って、パトリオティズムについても同じことがいえないか。著者は、自由を守るためには市民の徳(市民道徳)が必要だと説く。では市民の徳とは何か。そもそも自由とは何か。それは根源的には個々の文化的コンテキスト(文脈)に依存するものではないだろうか。例えば、フランスにおけるブルカの公共の場での着用禁止が以前話題になったことがある。ムスリム女性がブルカを着用することを禁止した法律は、ある意味で彼女たちの自由を抑圧するものである。しかし一方では、この法律はフランス共和国の徳とその市民の自由を守るものであるともいえる。フランスでは“ライシテ”と呼ばれる政教分離の理念はフランスの市民の宗教的自由を保障するものであるからだ。このように自由の観念とそれを守る道徳は個々の文化的コンテキストに依拠するものである(そもそも、自由という観念そのものも西欧文化のコンテキストにあるといってよい)。

 だからこそ文化的・民族的に近い者同士が国民国家という共同体を形成しているのである。もしパトリオティズムの論理に従うならば、必ずしも我々は日本という共同体を守る必要はない。我々の自由が確保されればよいのだから。そもそも文化的・民族的同質性に縛られない、自由を愛する人間は日本人である必要もフランス人である必要もない。パトリオティズムの論理を徹底していけば、いかなる民族的・文化的コンテキストにも所属しない空虚な人間像が浮かびあがる。しかし今まで述べてきたことから、そのような人間はあり得ないということがわかるだろう。人間は人間である限り何らかの民族的・文化的コンテキストに所属している。そうである以上、社会的、文化的、宗教的、あるいは民族的な同質性を必要としないなどということは断じてない。著者を含めた左翼勢力にはこの視点が欠落しているのだ。

 以上のように、文化的コンテキストを抜きにしたパトリオティズムなる概念は非常に空虚な概念であるといわざるを得ない。著者はナショナリズムを排他的なものと決めつけているようだが、排他的ではないナショナリズムによる共同体の維持というのも十分可能だろう。

しかしながら、左派の側から共同体を積極的に支えていこうという思想が出ること自体が非常に意義のあることである。とりわけ、地球市民などという空虚極まりない概念を振りかざす日本の左派には共同体を護持していこうという観念が微塵も感じられない。左派が積極的に擁護する民主主義には元来その共同体を防衛する義務も伴っていた。著者も述べるように、自由を守るためには共和政体を守らなければならない。すなわち共同体の保守は右派の専売特許ではないのだ。そうした意味では著者のような姿勢こそが健全な左派のあるべき姿なのだろう。問題なのは、その共同体をいかにして守るのかである。民族的・文化的同質性に頼るのか、自由という理念に頼るのかである。私自身はどちらも必要であると思う。確かに自由は大切だ。左派に限らず保守主義者もまた自由を重視してきた。自由なき共同体など誰も居たくはないだろう。しかしその自由やそれを守るための道徳は共同体独自の慣習や文化、伝統によって規定されるのである。もちろん人によって意見は多々あろうが、いずれにせよ、著者がいうように右派と左派が同じ舞台に立った上で議論することが不可欠である。そのためにナショナリズムのオルタナティブとしてのパトリオティズムが重要な役割を果たすことだろう。


(坂木)