2012年2月17日金曜日

佐伯啓思『反・幸福論』を読んで

 本書は、新潮45で連載された記事がもとになっていて、サンデルの白熱教室から東日本大震災まで、話題は多岐にのぼる。本書を通じて一貫しているのは、佐伯氏特有の諦観である。それは、全てが無意味だというようなニヒリズムではなく、諸行無常という言葉に代表されるようなものである。すなわち、「死」あるいは「無」を根源的なものととらえ、現世における煩悩を振り払う価値観である。そうした観点から、利己的・俗物的な「幸福」に疑義を唱えるわけだ。

とくに印象に残っているのが、「無縁社会」についてのエッセイだ。佐伯氏は、「無縁社会」は起こるべくして起こった戦後日本の帰結であるという。戦後、自由な個人を掲げ、血縁(家族)や地縁(コミュニティ)を退けてきた結果なのだ。

とにかく「縁」や「しがらみ」という面倒なものを断ち切ろうとしたのが戦後日本だったのではないでしょうか。戦後の民主主義にせよ、個人主義にせよ、都市化にせよ、あるいは、近代主義者や進歩的知識人たちがしたり顔で唱えた「近代市民社会」なるもののしごく当然の結果が「無縁社会」なのではないでしょうか。

 いや「近代主義者」や「進歩的知識人」など、所詮は現実から遊離した観念的な理念をもてあそんでいるだけです。あまり問題にする必要はありません。そうではなく問題は日本人全体に関わることです。別に「近代主義者」でなくとも、ほとんど誰もが都会的生活にあこがれ、「イエ」や「ムラ」の窮屈さに辟易し、幸福というものは個人のものだと主張し、ともかくも都会へでれば、キラキラしたネオンのもとには無限の可能性があると思ったものでした。

 したがって、「無縁死」や「孤独死」は近代化の帰結なのである。そこで問題なのは、果たして現代の我々が、そうした「無縁死」や「孤独死」を受け入れるような価値観や死生観を持っているのかということだと佐伯氏は指摘する。

 東日本大震災以後、“絆”を見つめ直すムーブメントが起こっているが、その“絆”も表面的なものにとどまっているように思う。自身の持つ血縁や地縁を引き受ける覚悟が、“絆”を叫ぶ人々にどれほどあるのか、疑問である。彼らのいう“絆”とは、せいぜい周囲の人間との交流を深める程度のものでしかないだろう。面倒なしがらみは退け、都合のよいつながりだけを追求するようでは、本当の“絆”とはいえない。したがって、無縁社会も根本的には解決しないだろうし、本当の意味での絆を築くこともできまい。

 しかし、被災した人が灰燼に帰した故郷をみつめ、生まれ育った地を離れるわけにはいかないと言うとき、そこに自らの―地縁を含めた―運命を引き受ける覚悟を感じるのである。どこか別の地で安住するという選択もあったろうに。勝手な解釈かもしれないが、ここに本当の意味での“絆”があると私は思う。

 自らの血縁や地縁を運命として受け入れる。これはある種の諦観に近いものがあるが、これこそが「自由な個人」という近代の宿痾を克服し、絆を回復するための第一歩だろう。そしてその先に本当の意味での幸福があるように思う。


(坂木)