2011年6月12日日曜日

情報強者たれパート4

先日、僕が投稿した「日の丸、君が代騒動について思うこと」への強力な反論が寄せられている。非常に明快な論旨であり、僕も承服してしまいかねないような説得力のある意見ではあるが、反論の余地はあると思われる。現在、反論記事を推敲中である。しばし待たれよ。





さて、今回は前回までとは少し切り口を変えて真の情報強者への道を探っていきたい。

ネット空間は非常にフリーなスペースであり、ややもすればアナーキーであるとも言えるような部分がある。その中でもネットのひとつの醍醐味と言えるのが、違法に動画や音楽をかなり自由に無料で入手できたりすることだろう。あるいは「コピペ」もまた類似の営みとして挙げられる。

情報享受のモラリティについてサンデルならば何と言うであろうか。
社会の幸福の総量を最大化するという功利主義の意見に、作品の製作者の権利を最大限に尊重すべきというリバタリアニズムの意見を闘わせて、、、。



功利主義者「社会の幸福が最大化されるからネットはフリーであってよい。」

リバタリアン「いやいや、創作物の所有権はその創作者が有しているだろう、それを勝手にネット上にうpするのは個人の権利を迫害している!」

リベラリスト「情報への接続可能性の公平性から、私も功利主義者の意見に賛成かな。」

コミュニタリアン「では、そもそも個人の創作物は本当に個人の所有物と言えるのだろうか、、個人が創作する才能や環境全てが個人の所有物であるはずがない。それは共同体の成員として皆で分かち合うべき性質のものである。ただ、共同体の秩序を考えると、過度に自由なネット環境も考え物だ。」

リバタリアン「・・・」



上の議論では、功利主義者はおそらくどのようなコンテンツでもフリーに入手できることを是とするようである。だが、コミュニタリアンは、ここに秩序という審級を持ち込んでそれに歯止めをかけようとしている。リバタリアンは単に創作者の権利の侵害という一点において自由な情報享受に反対している。

ネット上における情報享受のモラリティとは何なのであろうか。まさにそれを知る(知ろうとする)ことこそ、情報強者への近道であると言える。

僕はこの議論に「構造主義者」を登場させよう。
この男、議論に参加するというよりも己の意見を滔々と語り始めた。

構造主義者「前提として、我々は『贈与に対しては必ず返礼の義務を背負う』のである。」

これを聞いた他の論者たちは、彼がどこか別世界の住人であると感じた。

構造主義者「返礼する相手は必ずしも贈与者でなくともよい(何故か?)。とりあえず、贈り物を貰った者はまたほかの誰かに、自らが贈与者として贈り物を届けなければならない。」

リバタリアンは彼を変人だと断定した。ますますもって彼の論旨がとれない。

構造主義者「ネット上には様々な情報が氾濫している。当然先に述べた理由からそれを我々はタダで享受することは許されない。贈与に対しては返礼を、である。」

一同「!!!」

構造主義者「我々が、ネットから受けっとった情報を、何らかの形で他者に還元していれば問題は起こらないが、そうでない場合は、、、」

功利主義者「一体どうなるというのか、ええ?」

構造主義者「何か悪いことが起こり、死ぬ(by Marcel Mauss)」

リバタリアン「ふんっ、馬鹿馬鹿しい。」


構造主義者「リバタリアンの君は何か悪いことが起こっていないかい、君の贈与返礼バランスシートは大きく赤字だと思うが、、、。」

リバタリアン「よ、余計なお世話だ!(とはいえ心当たりがある)」



私はこの構造主義者の意見が最も腑に落ちた。人は返礼の義務を怠ると不幸になるという認識は経験的に持っているからである。

おそらく我々の人格システムがそのように構造化されているからなのであろう。ニートやうつの蔓延といった社会現象は、このロジックでおおかた説明しうる。

むやみにネットを使うとおかしくなる、といったことを昔の人はよく言うが、おそらくこの「罠」を本能的に感じているからなのかもしれない。

                                                                                                               (文責:gerira)