2011年6月11日土曜日

情報強者たれパート2

前回は、真理への接続可能性を常に確保するためにこそ、現在の意味論において支配的である情報技術への理解を積極的に行えという論旨を展開した。

今回も、前回に引き続いて「情報強者たれ」という若干挑発めいた表題とともに、情報弱者を叩いてみたい。

情報が情報として社会のなかで機能するためには「象徴化(coding)」という契機が必要となる。あるシニフィアンが象徴化されるためには、社会の中でそれに対する共通前提が構築される必要がある。重要なのは共通前提であり、それは間主観的、つまり一人では決して生成されない意識作用なのである。

少し気取った書き方をしたが、要するに「孤独な者は最高の情報弱者」ということである。

孤独なものの情報の享受は非常に特徴的である。認知を自分にとって回避できないもの––例えば自分自身の属性––に合わせて、整合するように他の事物を認知的に歪曲しがち(認知的整合性理論congnitive consistency theoryと呼ぶ)であったり、そもそもその情報量か極めて少なかったりと、いわば社会へのコミットメントに失敗していると言える(outsider)。

だからといって、僕が安易に「リア充」を推奨していると勘違いしないで欲しい。彼らもまた、前回述べた理由からそのような存在にならないとも限らない。安っぽいリア充ほどこの「罠」に引っかかるのである。むしろ、そういう孤独や絶望の淵からはい上がってきたようなタフな人間こそが「真の」ネットワークを築けるものと確信している。

つまり、僕が批判対象として想定しているのは、まさに「孤独」な事情から実存不安定に陥り、2chなどで度々起こる「祭り」に踊らされたり、ネトウヨやブサヨに走ったり、粘着質な絡みを展開したりするような者たちである。彼らはもはや情報技術に使われてしまっている。


社会への「深い」コミットメントこそが真の情報強者たる条件であろう。「深い」コミットはその分象徴界からの恩寵を多く得るというのがこの世界のcodeであるとしたら、、、

                                                                                                                (文責:gerira)