2011年6月30日木曜日

情報強者たれパート5

「真の情報強者とは、情報を的確に分析できるもののことを言う」
とは、当会のいわゆる「良識派」を標榜する面々の云いであるが、果たして彼らは本当に情報を「的確に」分析できているのだろうか。


僕がものすごく仲良くなった哲研の方(先輩)は、あるタイプの人間を「同じステージを堂々巡りする輩」と称したことがあった。どんなタイプの人間がこれに該当するのだろうか。

実は、これは、連載前々回に持ち出した「無知の知」の話そのものであることに気づいただろうか。曰く、我々は常に既に無知の状態である。ならば常にそれを自覚しつつ乗り越えようと努力することを怠るな云々。

「同じステージを堂々めぐりする輩」とはつまり、「同じ」無知の状態を続けながら日常を生きる者である。

彼らは自らの認識を更新することが極めて稀であるから(認識とは表層的な変化を言うのではなく人格システム、パソコンで言うOSそのものを改変するような変化のことをいう)、同じ情報から得られる情報量は常に同じである。けれども自分を絶えずずらしている者は、時間がたてば、同じ情報からまた新たに情報量を得ることになる。


文学や音楽、絵画や映画など、古今東西様々な芸術を享受し、かつまたは発信する習慣のある者ならば自然と研ぎ澄まされ、身についていくであろう感性を磨くルーティーン。そうでないものもまた、少なからず別の仕方でそれを埋め合わせているだろう。けれどもそういう経験値が決定的に足りない者、そういう霊感(inspiration)が決定的に足りない者、いわば「神に愛されない者」は自分も含めてどうすればよいのか。

そこで、ちょっと立ち止まって考えてみる。いつもとは違う仕方でモノを見る。

旅行とは、カイヨワの聖・俗・遊の三項議論からもわかるように、日常(ケ)から離れ非日常を経験し(ハレ)、前とは違う意識で日常に臨むという効果がある。修行もまた同様に、離陸・混沌・着地のプロセスを経て、人間を成長させる効果を持つ。いわゆる通過儀礼(initiation)である。

是枝裕和監督の最新作「奇跡」は子供たちがそのような通過儀礼という「奇跡」を体験し、少し大人になる姿を描く。なぜかこの映画を見たあと、僕は世界に輝きが増すように感じられた。

日常には様々なヒントが隠れている。
誰とは言わないが、忙しく生きている中でそういうことに鈍感になっている者がいるようだ。



入り口はすぐ近くにあるのかもしれない。

                                                                                                              (文責:gerira)