2011年6月11日土曜日

情報強者たれパート3

前々回は典型的な情報弱者と呼ばれる頓馬な方を批判し、前回は返す刀で自称情報強者の欺瞞を暴くという内容であった。今回も、前回の論旨を引継ぎ、自称情報強者たちのなかに存在すると僕が考えている「勘違い」のようなものについて徹底追求してみたい。

ソクラテスの「無知の知」はご存知だろうか。他のものは自分が無知であることに気づいていないが、ソクラテスだけが己が無知であることに気づいている。故にソクラテスが最も賢い云々。

プラトンのソクラテスに関する著作は全て対話篇になっているが、まさにこの構造ゆえにソクラテスはテアイテトスやゴルギアスを鮮やかに論破してみせるのである。

「無知の知」のような議論は哲学史上何度も同型の議論が反復されてきた。ソシュールの言語学然り、ヴィドゲンシュタインの言語ゲーム然り、デリダの脱構築然り、上田氏がよく取り上げるロールズの普遍的リベラリズムに対するサンデルやローティからの反論然り、どの議論にも共通するのはこの世界の中に存在する構造的欠陥ゆえの「真理への不可触性」である。わかりやすい例で言えば、神の存在証明の不可能性が挙げられる。 なぜならば この議論は、無限後退というパラドクスを孕むからである。この世界を創ったのは誰か→ではその世界を創ったものを作ったのは誰か→ではその・・以下無限に続く。尤も、スピノザはこれを証明したと主張するのであるが。とにかく、真理なるものは「名指し」できないのである。

今、自らを情報強者と既定したものがいたとする。彼は自ら措定した超越論的認識の内部において情報強者である。けれども、先に述べた「無知の知」原理により、これらをより高次で審級しうる超越論的認識体系が存在することになる。そこではもはや彼は自らが最も忌み嫌う情弱である。彼がそのような体系の存在を知ることは、前回述べた「事情」や無能(!)ゆえに極めてハードルが高いといわざるを得ない。

実は、というか当然この議論はもはや'自称’情報強者一般への批判にとどまるものではない。
養老孟司はこれを「バカの壁」と呼んだのは有名だ。

我々は常に既により低次な段階にとどまる存在であることを忘れてはならない。現在の社会システムの根幹をなす資本主義の仕組みは実はこれとトポロジカルである。この摂理の存在を無視しているがため共産主義は崩壊したのだ。

常に情報強者たる矜持をもて。さすれば壁は超えられん。

                                                                                                               (文責:gerira)