2011年6月14日火曜日

“俄か反原発派”を糺す

初めに申し上げておくが、私は極端な原発推進論者でも、反原発論者でもない。反原発という主張もひとつの考え方であり、尊重に値することは認めるし、私自身も脱原発はやむを得ないと思っている。しかし、このごろ巷に溢れている“俄か反原発派”には心底辟易している。彼らのように感情的に反原発を叫ぶ連中には全く以て賛同しかねる。

 “俄か反原発派”の最大の特徴はろくな知識もなく、ただ感情的に原発に反対することにある。先日、イタリアで原発政策の是非を巡る国民投票が行われたが、あたかもその投票が福島原発の事故を受けて行われた、あるいは反原発運動によって実現したかのように“俄か反原発派”の間では曲解されている。しかし、そうではなく、もともとこの時期に国民投票が行われる予定だったのだ。イタリア政府は今回の事故を理由に投票を延期しようとしたが最高裁判所が延期を許さなかったという事情はあるにせよ、投票は福島の事故とは関係がない。それにもかかわらず、“俄か反原発派”は、「イタリアのようなスピーディな対応を」とか「日本でも速やかな国民投票を」などとほざいている。彼らの無知蒙昧ぶりを象徴している。

 なによりも問題なのが、一体彼らのうちのどれほどが脱原発後の青写真を持っているのかということである。感情的に反対を叫ぶことは容易い。しかし問題はその先にある。一体どうやって原発に代わるエネルギー供給手段を確保するのか。脱原発を決めたドイツやイタリアとは事情が違う。それらの国ではもともと原発依存度は低い、あるいはゼロであり、さらに他国から電力を購入できる(皮肉にもそれは主にフランスの原発からの電力である)。私は“俄か反原発派”から説得力のあるビジョンを聞いたことがない。彼らは代替エネルギーを確保しないまま原発を停めたら日本の経済や社会にどれほどの損失がもたらされるかを理解しているのか。そして、自らの生活にも多大な影響が出る覚悟はあるのか。

 こう言うと“俄か反原発派”からは、「じゃあ原発のすぐそばに住んでみろ」などと批判が出るだろう。しかし、これこそが感情に身を任せた暴論なのである。大阪府の橋下知事が先日、原発を大阪湾に造る覚悟が府民にはあるのかなどと述べていたが、これもまた同様である。では質問するが、原発のそばに住んでいる人間でないと原発に賛成してはいけないのか。逆に原発のそばに住んでいない人間は皆反対と叫ばなければならないのか。冷静に考えてもらいたい。

 問題の本質は、直ちに原発をやめるのかということではない。いかにして徐々に原発依存から脱却していくかなのである。はっきり言って、福島のような事故が起きた以上、日本で原発推進などあり得ない。それは認める。しかし、かといって明日にもやめますというわけにはいかないのである。十分なエネルギー供給手段ができるまでは原発を続けていくしかないというのが実情なのである。そしてそのためには今停止している原発を漸次再開していくほかない。にもかかわらず“俄か反原発派”は全原発の停止を要求する。いい加減にしろと言いたい。何のプランもなく感情的に反対を叫ぶその無責任な態度のほうが原発推進論者よりもよほど性質が悪い。

 最近はマスコミでも反原発的な主張ばかりが取り沙汰され、脱原発に伴うデメリットはほとんど報じられていない。こうしたマスコミの姿勢も“俄か反原発派”を増長させている。世論とマスコミが一体となって情緒的に一つの方向へと突き進んでいくその末路がどうなるのか、左翼の方々が日頃口を酸っぱくして主張なさっている通りである。その左翼から感情的反原発を諌める声が聞こえてこないのはどうしたことだろうか。このままいけば、かつてのように我が国は亡国の道を行くことになるだろう。“俄か反原発派”の方々には冷静になっていただきたい。