2012年7月11日水曜日

現代日本への処方箋

  以下に収録した文章は、僕(gerira)が某大学の某F教授の講義で提出したレポートである。




日本は今、未曾有の国難に貧しており、なんとかしてこれを立て直さなければならない。まずは東北大震災による甚大な被害、そして慢性的な経済の停滞、少子高齢化による社会保障費の増大等々、現在日本が抱えている問題は極めて多い。これらの問題から日本を救うためにはどうすればいいのか。

日本の経済が不振である原因は一言でデフレである。デフレとは需要より供給の方が大きいことである。需要が少なければJ.M.ケインズの言にしたがって有効需要を増やすべく公共投資を増やすことが必要であろう。公共事業の増大は乗数効果でそれ以上の効果を齎し、GDPの上昇を帰結する。金利上昇懸念に対しては、日銀と政府がしっかりとアコードをして抑えていけばよい。GDPが上昇すれば経済が成長し、その成長によって年間1兆円といわれる社会保障費の自然増にも対応することができる。そして、その公共事業に際しては東北のふるさとを再生しつつ、将来的に生じるであろう災害に強い国づくりを進めていくことが必要である、云々。このような議論はもはや藤井先生がおっしゃっている通りで、それをなぞっても面白くないし、具体的な公共事業のあり方は土木の生徒が論じるだろうから、本レポートでは少し異なる視点で、現在の日本の問題点と処方箋について考えてみることにする。

                                                                                                                                 

【日本の近代化の特異性】
日本ほどの頻度で天変地異と呼ばれる現象に見舞われてきた“先進国“は、おそらく有史以来皆無であろう。日本社会には、近代社会の歩みに不可欠な市民革命を経験していないが、まさにこのような受難こそが、日本人の勤勉性の原動力になっている可能性は大きい。昨年の事故を思うとこの意見は政治的、道義的に不適切かもしれないが。

M.ヴェーバーは著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で、資本主義が成立する条件は、キリスト教、とりわけプロテスタンティズムの中のカルヴァン主義が重要であると説いた。カルヴァニズムの中心的教義である予定説は人を無限の信仰に向かわしめる。まさにその行為態度(ヴェーバーはそれをエートスと呼んだ)こそが資本主義のドグマと同型であることを看破したのだ。しかし(世俗内)禁欲精神が何故、金銭を至上とする資本主義を帰結したのか。それをヴェーバーは以下のように説明する。つまり、プロテスタントにおいては労働が救済であり、金銭が神に対する信仰のものさしとして捉えられる。そしてこの救済を目指して一心不乱に働いた結果として多量の資本が蓄積されるのである、と。

では、非キリスト教圏であり非欧米諸国である日本が世界史の中でいち早く近代化を成し遂げられた理由とは何なのか。それは二宮尊徳に代表される勤勉精神と、天皇の下で国民が平等であるとする思想体系である、という議論が定説となっている。その上で、地震や津波などの天災の存在が、日本人のメンタリティへの影響を過小評価してはならない。

特に江戸時代においては、他国と比べてもほとんど戦のない平和な世の中であった。けれども平和な世の中は弛緩と腐敗を招く。三池崇史監督『13人の刺客』に出てくる稲垣吾郎演じる暴君、松平斉韶が言うとおりである。そのような弛緩と腐敗を一掃するカタストロフィの存在こそ、350年以上も江戸時代が続いた要因であるように思う。

 死を意識することの重要性(M.ハイデガー)や、生の活動を高めるための死の重要性(J.バタイユ)を参照するまでもなく、死は日本人にとって重要なファクターであっただろう(近代以前の主体に対してこの議論は乱暴かもしれないが)。


【現代社会の風景】
少し前に富田克也監督『サウダーヂ』という映画を観た。数ある地方都市の一つ、山梨県の甲府を舞台に人々の生活を描いた群像劇である。日本に数多ある地方都市に共通な風景がそこには広がっている。シャッター商店街、大型ショッピングモール、フランチャイズのチェーン店、、、どこも同じフラットな世界に生きる人々の内面を鋭くえぐるシーンの数々に大きく心を打たれた。急激な時代の変化の違和感から“ネトウヨ”になるラッパー、逆風にさらされほとんど仕事がない“土方”の人たち、どこにも居場所がないから意識と理想が高い自己啓発的なイベンター、日々の生活の無味乾燥さに耐え切れず町の政治家と関係を持とうとする上昇志向の主婦、(僕自身も実存的にこういうふうに追い込まれていた(る)ので、この感じが痛いほどよくわかる)。この映画に登場する人物全てが「ここではないどこか」を追い求めて生きている。そしてそんなものが存在しないことを示唆する本作は、それがそのまま我々の現実であるということを、容赦なく閉塞感と絶望感とともに突きつける。差異を構成しないスーパーフラットな世界には柳田國男が観た民俗学的な磁場はもうない、がゆえのサウダーヂ(郷愁)である。

J.F.リオタールはいう。「愛による原罪からの解放というキリスト教の物語、認識による無知や隷属からの解放という啓蒙の物語、労働の社会化による搾取と阻害からの解放というマルクス主義の物語、産業の発展による貧困からの解放という資本主義の物語」は終焉したのだ、と。戦後、日本は右肩上がりの経済成長を示してきた。そこには技術立国としてみんなで豊かになりたいという大きな物語(master narrative, dominant story)、つまり共通前提が存在した。人は物語に意味を見出すのである。すなわち、物語とは意味であって、意味とは物語である。当然物語が消滅すれば、必然的に意味が希薄になる。F.ニーチェのいうニヒリズム。現代社会とはまさに意味が希薄な時代と言える。

 我々は、「意味の喪失」という時代を生きている。ただ、これには世代間に差異があるうに思う。中高年の世代の人たちは確かに「意味の喪失」フェーズに位置していると思うが、今の若い世代はおそらく「意味の喪失」を「喪失」している。意味の喪失さえ喪失していると、そこには意味を求める契機は存在しないことになる。古市憲寿が「絶望の国の幸福な若者たち」で論じたとおり、今の若者は現状に不満を持っていないが故に幸福な実存である場合が多い。

「意味の喪失」は アノミーをもたらすと言われるが、その代償行為として人は宗教やオカルトに回収されてしまうことは見易い。一昔前の若者や中高年の人たちの方が大きな物語を描きたがる背景ではないだろうか。
 

 意味が希薄化した世界に生きる実存とはどのようなものか。社会学者の鈴木謙介は「ハイテンションな自己啓発(カーニヴァル的祝祭空間)と醒めた将来像(黙示録的な諦観)の高速振動」を繰り返す、という。例えば、藤井先生の授業を聞いた生徒はその時は覚醒しても、またしばらくすると2chなどを見て世界に対して醒めてしまうという事態である。だから、目が腐った学生が一時的にその輝きを取り戻しても、すぐにまた曇ってしまうのである。そして、これは僕らのような世代には大きく当てはまる実存であるように思われる。


【考えうる処方箋】
現在の言論空間においては、民主党をはじめとするリベラルは司法制度など様々な分野における“近代化”という大きな物語を、また自民党をはじめとする保守派はいわゆる「戦後体制の打破」を大きな物語として掲げている。けれども、このような物語は正直言って観念的すぎて人口の数%にしか共感を得られないだろう。

 そんな中で多くの人が共有可能な「大きな物語」を紡ぎ、この国を救うことは可能なのか。当然、大きな物語など必要ないという考えもあるだろう。脱成長という考え方はその一つではないかと思う。だが、脱成長では増えゆく社会保障費を賄うこともできないし、工業立国として豊かな生活を営むこともままならなくなる。貧しい生活は人間らしさを様々なところから毀損してゆく。職がないという事態ほど辛いものはないだろう。そう考えると、やはり我々は成長を目指さなければならないという結論に至る。そしてそれは、冒頭で述べた近代資本主義という軛の下で生きていかねばならないということを意味する。 

 今まで現状認識について述べてきたが、実は僕は何の処方箋も用意していない。確かに
適当なものを用意しようと思えばいくらでも出来るのかもしれない。ここまで論じてきた内容が娑婆を知らない若者の観念的な戯言であると断罪されたとしても(観念的のみにこのような思考をするのは不可能だと思う)、やはり真の意味での処方箋を見つけることはかなり難しいように思われる。が、だからといって諸手を挙げて降参しようと言うわけではない。僕はとりあえず、この現状を冷徹に見定めることからはじめようと思うのだ。



<参考文献・資料>

     M.ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(1904-1905

     小室直樹「日本人のための憲法原論」(2006)

     M.ハイデガー「存在と時間(上)」(1927)

     J.バタイユ「エロティシズム」(1957)

     J.F,リオタール「ポスト・モダンの条件―知・社会・言語ゲーム」(1979)

     古市憲寿「絶望の国の幸福な若者たち」(2011)