2012年7月28日土曜日

事を成すことの難しさについて


  京都の片田舎にそれなりに大きな役目を引き受けた男がいた。彼ははじめの仕事でものすごい失敗を犯した。原因は段取り不足。事を成すにあたって、明確な到達点の設定とどのような手順でそれを行えばいいのかというシミュレーションを怠っていたのである。

  人が事を成すとき、そこには必ず「行動意図(何をするのか)」と「実行意図(どのようにするのか)」が存在する。通常、行動意図→実行意図という順で思考は展開される。つまり、行動意図がそれなりに大きくても、実行意図がないと人はなかなか実行に移さないのである。
  今回の場合、行動意図も明確でないばかりか、実行意図に至っては全くなかったと言っていい。これでは思うように事をなせないのは当たり前である。しかし、彼はその後この理論を知り、自分の失敗を定式化した。

  次の仕事がやってきた。彼は、前と同じ轍を踏まないように、先の理論にしたがってまず行動意図を明確にし、実行意図をそこから導き出した。これで万事うまくいく、彼はそう思っていたが結果は大惨敗。確かに前の失敗に比べれば少しはマシになったかもしれないが、まだまだ成功には程遠い。

  今回は何が足りなかったのだろうか。人を動かすことが出来ていなかったのである。どれだけ行動プラン(先の行動意図と実行意図のセット)が明確であっても、それを自分一人でやってしまおうとしたために、人をうまく使えなかったのである。

  「構造的方略」という言葉がある。法的な規制や利益分配の仕組みなど、社会的な構造を変革することにより社会問題を解決に導く方法のことである。要するにシステム(アメとムチ)を導入して人を動員するのである。

  次は大きな仕事だった。今までの仕事の大きさとは訳が違った。当然人の使い方が物凄く重要になる。そこで彼はこの構造的方略を取り入れ、積極的にシステムを導入することで極めて効率的に仕事をやってのけた。行動プランも完璧、構造的方略の巧みな利用。今までとは見違えるような仕事の捗り方。事実、ここまで効率的にこの仕事をやり遂げた時代はなかったという。

  それでもだ、まだ何かが足りないのだ。なかなか言葉では表しにくいようなもの。心意気や気概、充実感、、、どれもしっくりこないがそれらが合わさったようなもの。そして、そういうことが実は一番大切なのである。

  一般的に構造的方略は信頼や責任感、道徳心や良心といったものを低減させてしまうという。システムの導入は、システムに適応するという人間の本来的特性(本能的なもの)が強化されてしまい、信頼や良心などの人間的な特性が翳ってしまうというのである。
  確かにそうだった。彼が行なった構造的方略はなるほど人を極めて合理的に動かしはしたが、結果として何か大切なものが欠けてしまったのである。

  彼は少しずつ考えを変えていった。彼はメンバーに対して積極的に仕事を与えた。今までならばリーダーがやっていた仕事も、メンバーに任せたのである。メンバーの事を考えれば、今後中心になってやっていくのは彼らである。その彼らに仕事を任せることで、その技術がしっかりと継承される。少しハードルは高いかもしれないが、その分試行錯誤して学ぶことは多い。真に他者のことを考えればこその方法。何でも自分で全て仕事をやってしまうというリーダーは、結局は自分のことしか見えていない場合が多い。子育てでも同様である。子供を甘やかせて身の回りの事を全てしてしまうことがその子の為にならない。自立した人間を育てるためには、自分のことは自分でするようにしつけるべきであろう。そして、優秀な人間(と自分で思っている人間)ほどその傾向は強いように感じられる。


  少しずつではあるが、皆の自発性、そして内発性(違いは何か?)が高まってきたように思う。大切なものを吹き込むために他に何が必要であろうか。彼は今も、これまでと同様、試行錯誤を重ねている。