前回でF教授の議論を類型化した。そのうえで類型化されたそれぞれの考え方が抱える問題点について、それぞれ指摘していく。
その前に、F教授の思想的傾向をまとめる。F教授には、理性と本能という人間の二面性から人間の理性を重んじ、本能は可能な限り小さい方が望ましいという強い理性志向の考えが見え隠れする。
こうしたことから以下のような結論が導かれる。
①
公共投資の有する構造的方略としての側面の軽視
F教授は心理的方略を賞賛し、構造的方略の問題点を強く批判する。一方で公共事業については社会での必要性を強調し、より拡大していくべきであると提唱する。
しかし、公共投資には、都市から地方への資本の還流、つまり、地方経済活性化のための構造的方略としての側面を有する。結果、地方経済は、構造的方略の欠陥[1]によって苦しめされる。もちろん、感情的な公共事業批判には与しない[2]。しかし、反省なき公共投資は、地方経済を特色ある経済ではなく、ますます公共投資漬けの経済にするだけである。
②
経済成長・イノベーションにおける本能の重要性
これはイノベーションでも同じことである。談合にもメリットはあり得るが、新規参入者を否定する可能性が高い。またイノベーションを抑制する方向に作用する。また理性を賞賛する考えからは、本能の果たす役割は軽視されがちである。
③
過度な競争排除による新たな犠牲者の発生
タクシー規制の緩和にF教授は強い反発を示されている。確かに問題[4]は多い。しかし原因を突き詰めれば、その背景には大量の失業者が雇用先を求めて、タクシー業界に流入したことがわかる。言い換えれば、タクシー規制の強化は多くの失業者を職から締め出し、失業者から「誇りを失わせる」行為に他ならない。
高度な専門性を持ち、供給が常に不足する医療のような分野では規制を緩和すること[5]で米国のような医療価格の異常な高騰を招くことは考えられるが、タクシー業界ではそのような不利益は考えにくい。むしろ労働基準監督署による監視強化など間接的な対策を行う方がタクシー運転手の労働環境を守れたのではないか?
④
コーポラティズムとエリート主義の融合「合意なきコーポラティズム」による問題
F教授は、英米的な新自由主義的な政策、競争原理を批判し、一方で談合や規制強化について評価している。合議や人間の理性に信頼を置く考え方は、北欧において1980年代に政労使3者が合議により国家戦略や公共政策の方向性を決定していたコーポラティズムを想起させる。しかし、F教授は、エリート主義を理想とする発言をしている。これは、北欧のコーポラティズムとは、矛盾する発想[6]である。
F教授の理想とする社会と北欧型コーポラティズムとの矛盾点を解消するためには、F教授の考え方の帰結は以下のようになるはずだ。つまり、談合など枝葉での部分的最適化のために合議を取り入れる。しかし、根幹の政策決定は、専門家集団やエリートが独断的に決定権を保持する「合意なきコーポラティズム」といえるものである。これはもはやポピュリズム(国家コーポラティズム)[7]に近い。
確かに南米にて成立した包括政党などが、エリートとして腐敗せず、あたかもプラトンが理想とした「賢人政治」を実行できれば、理想的である。しかし歴史が語るように、(そして藤井先生にあえて述べるまでもないだろうが、)南米でのポピュリズム政治は、その腐敗を理由として強い批判を受け、必ずしもうまくいっていない。
[3] もし、すべての人間が理性・リスク計算に従っていれば、起業のような失敗のリスクの大きい、リターンの少ない行為など誰もしない。しかし、人間は野心的な時に危険選好型で冒険心豊かになる素質を持っているから、経済は回っていく。
[6] 北欧でのコーポラティズムは利害関係者が集中的な権限を持ち、合議により公の立場から政策を決定するものである。したがって直接民主主義が徹底される反面、合議が破たんし公共政策が失敗することも少なからずある。
[7] ここで想定しているポピュリズムとは、ネオリベラリズム的なポピュリズムではなく、南米で誕生した政治学的なポピュリズムを指す。南米でのポピュリズムには、2000年までのメキシコ・制度的革命党、アルゼンチンのペロン党、近年ではベネズエラのチャベス大統領などの例がある。制度的革命党は包括政党として、労働組合・資本家・知識人層すべてを体制内に抱合する体制であった。この体制下では、メキシコ革命を定着させるために貧困層に対するパターナリズム的な政策が採用される。一方で包括政党として制度的革命党が圧倒的であるため、野党が弱体で一般市民はほぼ政治的意思表示ができない。なお、制度的革命党は、1980年代の財政危機をきっかけとして、パターナリズム的政策を維持できず、ポピュリズムを維持できなくなった。結果、2000年に下野した。