2012年7月16日月曜日

パンダ騒動から考えるメディアのあり方。


 上野動物園のパンダの出生から死までが随分と大々的にメディアで取り上げられていた。私などは、パンダに何の関心もないから、その話題が出るたびに辟易していた。パンダの話題にうんざりしていたのは、おそらく私だけではないだろう。このパンダ騒動から、現代のメディアの歪みを論じたい。様々な切り口があろうが、テレビを中心に、メディアの東京目線という観点から論じる。

 以前、とあるテレビ局で長年プロデューサーとして活躍されてきた人の話を聞く機会があったのだが、そこで彼が述べていたのは、メディアの東京目線ということだった。現在、日本のメディア、なかんずくテレビの中心は、いうまでもなく東京である。テレビでいうと、東京にキー局と呼ばれるものがあり、そこで制作される番組が地方で放送されるわけである。したがって、そのプロデューサー曰く、番組も東京目線になりがちなのだ。

 それはニュース番組で顕著に表れる。今回のパンダ騒動がまさにそれだ。上野動物園という、本来なら全国に数ある動物園のひとつに過ぎないところでパンダが生まれたというのは、どう考えても全国で放送するべきほどの価値はない。せいぜい、首都圏ニュースで取り上げられる程度だろう。例えば、和歌山県にもパンダを飼育している施設があるが、そこでパンダが生まれたとしたら、全国ニュースで取り上げられるだろうか。答えは、否である。東京でパンダが生まれたことに意味があるのであり、だから全国で放送されるのである。

 同様のことは、東京スカイツリーにもいえるだろう。スカイツリーも、上野動物園のパンダと同様、首都圏以外に住む人間には何の関係もない出来事であり、トップニュースになるほど重要ではない。東京にできたから取り上げられるのである(ただし、スカイツリーをナショナリズムの問題としてとらえるならば、話は別であるが)。

 このように、メディアの価値基準が東京に偏っている。テレビのみならず、出版社も東京に偏在していることからわかるように、こうした偏りはメディア全般についてもいえることだろう。昨今では地方分権の声が喧しい。ニュース番組でも、霞が関の中央集権体制を批判するコメンテーターは事欠かないが、まさにそのメディアこそ、霞が関に負けず劣らずの中央集権なのである。

(坂木)