2011年11月3日木曜日

各論:「『諸君!』『正論』の研究―保守言論はどう変容してきたか」

ここでは書評では書ききれなかった問題を論じていきたい。

いつまで贖罪意識を持ち続けるのか

 本書全体を通じて筆者は「他者の視点」を強調する。中国や韓国、北朝鮮といった戦時中に日本軍の侵略を受けたアジア諸国への配慮が保守論客たちには欠如しているという。靖国問題にしても、歴史認識問題にしても、さらには拉致問題にしても一貫してそれを主張する。例えば靖国神社とA級戦犯合祀問題について以下のように述べる。

「内政干渉」という主張にも首をかしげざるを得ない。侵略戦争の指導者を神と祀る神社を首相が参拝する。それを単に「内政」と片付けられようか。それは日本に侵略された国や人々の存在をまったく無視して、「何をしようとも勝手」と無反省に開き直る考えだ。(118頁)

 このように「侵略に対する反省と謝罪」を求めるのは左翼の常套句である。確かにそれは大切だろう。私とてあの戦争が侵略戦争の側面を有していたことを否定しないし、侵略に対する謝罪もするべきであると考える。しかし日本はこれまで機会があるごとに「反省と謝罪」を述べてきたのではなかったのか。にもかかわらず、彼らは相も変わらず反省と謝罪を求める。彼らはどうすれば満足するのか。毎年815日に謝罪声明を出せば満足するのか。

 また歴史認識問題についても、筆者はいわゆる「東京裁判史観」批判を批判する。詳述は避けるが、要するに「東京裁判史観」として保守派が批判する自虐的な歴史観は自虐的でも何でもないという。加害の歴史を直視せよというわけだ。

 先程も述べた通り、私は戦争が侵略戦争の側面を有しており、現地の人々に苦痛を与えたことを否定しない。一部の論者には「あれは解放戦争だった」とか「南京事件は捏造だ」と主張する者もいるが、それにはあまり賛同できない。

ただし、だからといって私は殊更日本だけが悪者だったとも思わない。戦争において現地の一般人を殺害することも稀ではなかろう。加害という側面だけをみれば、アメリカのほうが日本に多大な損害と苦痛を与えたことは間違いないし、ソ連のシベリア抑留のように日本の捕虜が非人道的な扱いを受けたことも少なくなかった。

したがって左翼が日本の加害だけを強調することに違和感を覚える。彼らは他国の加害には目を瞑り日本だけを加害者に仕立て上げようとする。それを「東京裁判史観」というのではなかろうか。

拉致被害者家族は右翼なのか

 本書で非常に印象に残っているのが、筆者の拉致被害者家族に対する異常なまでの敵意だ。筆者は、拉致問題を解決するにはまず日本の過去の植民地支配を謝罪し国交を回復することが重要だという立場であり、それゆえ制裁を叫ぶ拉致被害者家族は「強い被害感情と憎悪」に掻き立てられ「報復感情」を剥き出しにした存在と映るようだ。例えば筆者は増元照明氏の発言を以下のように曲解する。

「これまでの政府は、北朝鮮を交渉の場につかせるために食糧支援を続けてきた(略)しかし今回は、何ら新たな支援も始めないまま。しかも金正日自身が拉致を認めて謝罪したことを踏まえて交渉が開かれた。ようやく日本は『過去の植民地支配の贖罪』という呪縛から放たれ、拉致問題解決に本気の姿勢で臨むことができた」

 植民地支配の問題は終わった、今度はこっちが被害者だ。増元はそう言いたいのだろう。拉致事件によって日本は、植民地支配の罪という「呪縛」から解き放たれる、日本の罪はこれでなしになる、という主張だ。(287頁)

 どこをどう解釈すれば「拉致事件によって日本は、植民地支配の罪という「呪縛」から解き放たれる、日本の罪はこれでなしになる」というような発言になるのか、私には全く理解できない。むしろ「謝罪が先」というような北朝鮮側の姿勢によって交渉に手間取っていたのが、今回ようやく交渉にありつけたと安堵しているというのが妥当な解釈だろう。少なくとも、植民地支配を拉致で相殺しようとする政治的意図は感じられない。

更に筆者は言う。

小泉訪朝のあと、メディアは、北朝鮮たたきで沸騰した。家族会や救う会、『諸君!』『正論』の論者とはちがって、北朝鮮に対して報復感情をむき出しにしない者、冷静に考える者は北朝鮮寄りだと決めつけられた。(296頁)

 筆者の目には家族会は『諸君!』『正論』の論者と同類に映るらしい。筆者はなぜこうも家族会を敵視するのか。無論、家族会には北朝鮮に対する憎悪や報復感情が皆無だとはいえないかもしれない。しかしそうした感情よりも、家族を取り戻したいという痛切な思いのほうが強いはずだ。彼らが北朝鮮に対する制裁強化を要望するのも、報復というよりもそのほうが融和策よりも効果的だと考えるからであろう。筆者は「北朝鮮に対して報復感情をむき出しにしない者、冷静に考える者は北朝鮮寄りだと決めつけられた」と決めつけているが、冷静に考えて制裁を主張する者=報復感情をむき出しにする者と決めつけるその態度こそ問題なのである。

 他にも気になった点がある。それは金大中拉致事件について、渡部昇一が2002年の小泉訪朝後、北朝鮮による拉致事件と同列に考えてはいけないとした発言に筆者が反論した部分だ。

「金大中事件はKCIAによる在日している自分の国民の拉致ですから、北朝鮮による日本人拉致と同列になるはずがない。何の罪もない他国民を袋詰めにして、他国である日本から連れ去ったのとは次元が違うのは、明々白々のことでしょう」

 これに対して筆者は「渡部にとって問題はやはり日本人の人権だけであって、金大中の人権は視野の外にあるのだろう」(288頁)と批判する。

 渡部氏の方が正しいといわざるを得ない。渡部氏は金大中の人権を無視しているのではなく、同じ拉致でもその意味合いが違うと言っているのである。民主化のリーダーであった金大中が国家権力によって拉致され殺害されかけたのと、一般人が工作員養成の目的で拉致されたのとでは全く性質が異なる。当時の朴正煕独裁政権下において民主主義を掲げた金大中が政権から睨まれていた。その金大中が暗殺の危険にさらされるのは不思議ではなかった。念のために言うが、私は朴正煕を擁護するわけでは決してない。あの事件は金大中の人権にかかわる重大な問題だったといってよい。ただ事実として、独裁政権下において民主化を掲げることには大きなリスクが伴うのである。したがってあの事件は、拉致事件というよりもむしろ暗殺未遂事件としてとらえられるべきものである。一方で日本の拉致事件はどうだろうか。何の罪もない一般の人々が拉致されたのである。しかも今も解放されずにいる。両者の性質の違いは明らかだろう。何も韓国人の人権を軽視しているわけではないのである。

(坂木)