2011年11月1日火曜日

書評:「『諸君!』『正論』の研究―保守言論はどう変容してきたか」

 本書、上丸洋一「『諸君!』『正論』の研究―保守言論はどう変容してきたか」(岩波書店)を一言で紹介するならば、“朝日記者による『諸君!』『正論』への反撃”といったところである。筆者上丸洋一氏は朝日新聞の記者であり、オピニオン編集長、『論座』編集長などを経て現在は朝日新聞編集委員である。ご存知の通り、朝日新聞といえば『諸君!』『正論』などの保守論壇にとってはこれまで幾度となく批判してきた最大の敵である。その批判に対してひとりの朝日記者が立ち上がった。それが本書である。

 この本を書店で見かけたときには大きな関心をそそられたが、実際に読んでみると期待はずれでがっかりした。それが私の率直な感想である。というのも私は『諸君!』『正論』の変遷を通した思想史的な内容を期待していたのだが、実際のところは『諸君!』『正論』批判、朝日擁護に終始してしまっているからだ。タイトルを「研究」から「批判」に変えるべきだろうとさえ思えた。

 もちろん評価するべき点もある。筆者が述べているように、これまで『諸君!』『正論』という日本の二大保守系雑誌の研究がなされたことはなく、その意味で本書のようにそれらの雑誌の内容を創刊時から辿っていくことには大きな意義がある。またそれに費やした筆者の苦労を考えるに、素直に称賛すべきである。

また、“保守から右翼への変容”という本書全体の主張にも概ね賛同する。私自身も現在“保守言論”と称されるものが果たして本当に保守主義的なのかということには大きな疑問を感じているし、実際本書では冷静穏当な保守が過激な右翼へと変貌していく過程が描かれている。さらに筆者の保守論客に対する批判にも同意できる部分がある。

しかしながらやはり本書全体に対して否定的評価を抱かざるを得ないのは、本書には反『諸君!』反『正論』という思想が根底にあり、『諸君!』『正論』は間違っており筆者や朝日新聞の方が正しいという意図が随所に感じられるからだ。

例えば、2003年に北朝鮮が核不拡散条約(NPT)から脱退した際に『諸君!』で「日本核武装論」という特集が組まれたときのことだ。これに対して筆者は「北朝鮮の核開発問題を冷静に語るべき折に、それなら日本も、とばかりに身を乗り出して核武装の是非を論じること自体、ジャーナリズムとしての抑制を欠いていたのではなかろうか」(105頁)と批判している。この発言にある種の不気味さを感じるのは私だけだろうか。確かに筆者の言うことは正しいかもしれない。しかしだからといって他者の言論を非難するのはお門違いだ。北朝鮮の核問題に対して対話で解決しようとする筆者の姿勢も間違ってはいないが、日本が核武装して(乃至はその可能性を示唆して)相手を揺さぶるという方法も全く以てナンセンスとは言えないだろう。しかも筆者はこうした論調に対して「ジャーナリズムとしての抑制を欠いて」いるとまで述べている。これは言論の自由を萎縮させるとんでもない発言である。しかもこうした言葉がジャーナリストから発せられたのである。全てのメディアが対話しか主張しないという状況が健全といえるのだろうか。

その一方で朝日新聞に対しては一貫して寛容である。1975年の記者会見において昭和天皇の戦争責任を問う記者の質問に対して、昭和天皇は「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究していないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます」と述べられた。これを受けた朝日新聞の記事には「『文学方面』とは、ちょっと奇異に響くことばだが、天皇としては『そういう英語のニュアンスは、私にはよくわからないので……』ということで使われたのだろう。だが、同時に『戦争責任という用語で認める、認めないというような、言葉の問題はどうでもよいのではないか、私の気持ちを察してほしい』という思いを、この表現にこめておられるようにも聞こえた」とある。新聞が陛下の言葉を勝手に解釈した記事で重大な問題だと思うのだが、筆者は「無署名で、天皇の心境を忖度した。客観報道の域を超える異例の記事だった」(202頁)と「異例」の一言で済ませている。先程の論調とは対照的だ。どちらがジャーナリズムにとってより深刻な問題であるか、言うまでもない。本書があくまでも『諸君!』『正論』を主眼に置いたものであることを考慮しても、あまりにも朝日新聞に甘すぎはしないだろうか。この他、筆者は朝日新聞の記事・社説に対しては好意的である。

このように反『諸君!』反『正論』ありきの姿勢が全体を通して色濃く反映されている。そして自身の考えやそれに沿う朝日の記事はあたかも中立的で妥当なものだとする。このような人物が一介のジャーナリスト、しかも大新聞の編集委員まで務めているというのだから驚きを禁じ得ない。自身の意見を主張することは結構だが、同時に自身の意見は果たして本当に中立的なのかを常に問う。これがジャーナリズムに求められる姿勢ではないのか。筆者は『諸君!』『正論』の論客たちを、自身の考えに沿わない者は「反日」だと決めつけ口汚く罵る偏狭な人間だと批判するが、筆者もまた自身が批判する論客達と大差ないことに無自覚である。筆者は言う。「なるほど、言論、報道は、客観的かつ多角的な視点で書かれるべきであるのはその通りだ。一方に偏した主張は大抵、説得力を欠く。新聞が批判にさらされねばならないことは言うまでもない。しかし、「偏向」「偏向」と批判する論者は、さて、一体どこに立っているのか?」(330頁)。そのまま筆者に問いたい。

次回もさらに本書について論じていきたい。


(坂木)