2011年11月18日金曜日

反省と反論

 43氏から反論が寄せられた。なるほど、確かに私の無知ゆえに大阪府と大阪市の歴史的関係性に思いが至らなかったのは反省する。ただし、少々誤解されているようなので申し開きさせていただく。

 私は何も橋下氏の政策そのものを批判する気は毛頭ない。管見では都構想には反対であるが、それは大阪府民・市民が決めることであり、私が口出しすべきことではない。また、日の丸・君が代条例のように橋下氏の政策には賛同できるものもある。

 私が問題視するのは個別具体的政策云々の話ではない。その急進主義的手法なのである。43氏は「「熟議」という言葉を橋下氏が批判しているのは、府市連携という「熟議」のアプローチが役所の論理によって限界があったからこそ、「独裁」という言葉で、別アプローチを模索しなければならないと強調するのであろう」と述べるが、そうだとしても「独裁」という強烈な言葉を平然と用いることに危惧の念を抱く。「最近はやりの「熟議」で打開せよというのは、無責任な傍観者のコメントに過ぎず一顧だに値しない」、「「仲良く話し合いを」「既存の制度のなかでの調整を」と主張する他地域の識者の皆様には、そうした不用意な発言こそが日本をここまでだめにし、また大阪の既得権益勢力を支援するということを自覚いただきたい」という文言にしてもそうだが、なぜここまで挑発的かつラディカルな表現を用いる必要があるのか。もし有権者に訴えかけるにはこれくらいのセンセーショナルな表現がちょうどいいと考えているのであれば、まさに大衆を煽動する革命的手法そのものである。そもそもこうした謙虚さの欠如した文句自体が急進主義の産物だろう。

 そう、私が批判しているは、そうした謙虚さの微塵も感じられない急進主義なのだ。都構想を掲げるにしても別のやり方があるだろう。例えば、相手に一定の理解を示しつつもそれでは問題は解決しないと説得するというように、謙虚さと説得力を兼ね備えた選挙戦略のほうがはるかに支持を得られるに違いない。なぜ相手を敵対勢力とみなし徹底的に叩くのか理解に苦しむ。

 したがって歴史的経緯がどうであれ、橋下氏のやり方には賛同できないのである。