2011年11月25日金曜日

「不安」について

昨今、当会でも多作主義が横行しはじめており、私のようなキューブリック譲りの寡作家にとっては少々肩身が狭い状況である。連中は「沈黙は金」という昔の故事を知らないのだろうか。

 だがしかし、ここはコンスタントなアウトプットの重要性を暫定的に認め、粛々と投稿させていただく。

 さて、今回は養老孟のコラムを読んで、なるほどと思ったトピックから。

 テーマは「不安」について。養老はいう。マスコミはことあるごとに不安を煽り立て、不安が存在する状態を敵視し、それを改善すべきであるという論調の下、行政をはじめ様々な立場の存在に対して批判を加えているのだと。つまり不安が存在することは論理的な反芻を経ずして絶対悪であるように擬態し、それを錦の御旗に受け手に暴力を振りかざす。

 目下、耳目を集めているには「放射能汚染」問題。確かに、小さい子供がいたりする親御さんの立場に立てばその不安はわからない訳ではない。けれども、この不安が解消されることは100パーセントありえないのである。おそらく科学がどれほど進歩してもこの問題に決着を付けることはできないであろう。

 西部風に言えば、この「不安のドグマティズム」こそ現在の日本社会の悪癖であろう。

 少々、不安があっていいではないか。不安を感じることができることこそ人間に与えられた特権である。そのように締めくくる養老の文章に私は久々に我が意を得たり、と感じた。

     (文責: gerira)