2011年11月17日木曜日

橋下氏を擁護する

先日、投稿された坂木氏の論調であるが、概ね理解することはできる。しかしながら、大阪都構想については、今までの歴史的経緯を考慮しなければ、理解できないことが多い。その点を踏まえて、橋下氏を擁護する論を展開していきたい。

まず坂木氏は、大阪都構想が、府市連携についてさらに深化させる方向を無視したものであると指摘する。そのうえで、他の可能性を考慮せず、あるいは無視している今回の議論は、論理の飛躍があると指摘している。

確かに理想論ではその通りかもしれない。しかし、坂木氏が引用しているように大阪都構想は「30年以上にもわたって議論されてきた」ことであり、その背景には「府市あわせ」とも揶揄される、大阪府と大阪市の中に根強く残っている対立の構造がある。大阪都構想は今でこそ橋下氏の専売特許のようになっているが、実は太田房江前大阪府知事をはじめとして大阪府の関係者が何度も主張してきたことである。その背景としては、大阪府が財政難の中、大阪市の財源と大阪府の財源を統合することで大阪府の財政状態を改善したいというやや後ろ向きな面も見られ、一方で大阪市の独自色が強すぎることで、とん挫してきた。

大阪市の独自色が強い点は、実に様々なところで禍根を残している。例えば、東京に比べて大阪は相互乗り入れをはじめとして鉄道会社間の連携が少ない。その最大の原因は大阪市交通局は「大阪市内での私鉄参入を禁止する、市の交通を営利会社にゆだねない」という時代錯誤な方針を近年まで続けてきたことに由来している。水道事業など公営企業についても、大阪府・大阪市が財政難に陥る中で、何度も統合が叫ばれながら、大阪市が独自性を維持したいがために、とん挫し続けてきたのである。これは平松氏と橋下氏が蜜月関係と呼ばれていた橋下府政初期でも例外ではない。蜜月関係と呼ばれたときでさえ、統合は実現しなかったのだ。「熟議」という言葉を橋下氏が批判しているのは、府市連携という「熟議」のアプローチが役所の論理(というとイデオロギー的かもしれないが、相互の利害関係を調整するのが難しいという意味で組織の論理が働くのは当然だろう)によって限界があったからこそ、「独裁」という言葉で、別アプローチを模索しなければならないと強調するのであろう。ならば、都構想の是非はさておき、府市連携というアプローチには限界があるという結論を橋下氏が導き出すのはそれほど論理飛躍しているとは言い難い。

坂木氏は、区長公選などを役所から市民に権力を取り戻す過程と描き出していることが暴力的革命の描き方と近似的である点を指摘する。

これもアジテーションが混じっていることは否定しない。ただし政令市が基礎自治体として規模が大きく、それを解体して、新たに区に基礎自治体を再編成するという発想は、橋下氏が初めて述べたものでもなんでもなく、これも極めて使い古された議論である。民主党の提唱する地域主権型改革や小沢氏の基礎自治体の考え方など基礎自治体の規模を一定規模にする発想は珍しくない。革命イデオロギーというよりはリベラリズムや新左翼の「市民」・「自治」礼賛の考え方に由来しているのだろう。しかし、こうした考え方はいまや保守派でも一定の共有がなされている考え方である。私自身も基礎自治体の規模が大きすぎるor小さすぎることは財政基盤ときめ細かい市民サービスの面から望ましくないし、市民の目が行き届かない面でも望ましくないと考える。

最後に、橋下氏が「議論」「熟議」を求める意見を批判している点に、再批判を加えている点であるが、この点はおおむね賛同する。ただし橋下氏は、大阪府庁のWTC移転で専門家からの批判を受けて、全面移転を撤回したように、熟議を否定しているわけではない。ただし、今回の大阪都構想を巡って、歴史的経緯を無視した「熟議」論批判に対する嫌気がこのような「独裁」的な主張につながっているのだろう。

保守派は人間の理性を疑う立場から、ラディカル、ドラスティックな改革に批判的・慎重でなければならない。しかしながら、保守派は同時に歴史を重んじる。大阪府と大阪市の歴史的関係性について無知な熟議批判は、「熟議」「反独裁」という言葉を振りかざしてはいるが、実のところ今まで先人たちが築きあげてきた「熟議」は軽視しているのだ。

私たちは今と過去、双方を照らし合わせながら、謙虚に歩んでいかなければならない。橋下氏には謙虚さを失いかねない要素があるのは最後の点からも明らかである。だから監視は必要である。しかし、革命イデオロギーとしてレッテル張りするのも違うだろう。

(執筆者 43)