2011年11月12日土曜日

「侵略に対する反省と謝罪」をめぐる左派の矛盾

 前回、私は「侵略に対する反省と謝罪」という左派の常套句に対して批判を加えたが、それに関する秀逸な批判を紹介したいと思う。それは「侵略に対する反省と謝罪」という文言に含まれた国家意識を抉り出すものである。

 保守論客としても著名な佐伯啓思氏は『現代日本のリベラリズム』(講談社、1996)において次のように述べる。

国家の戦争責任という議論そのものが、こうした国家の連続性、個人の利害や経験を超えた国家のロジックを前提としていることは改めて確認しておきたい。だから、不戦決議や謝罪声明の要求は、実はこの意味での、個人の都合を超えた国家のロジックをはしなくも主張したことになる。しかしまさに、不戦決議や謝罪声明を要求してきたいわゆる戦後民主主義こそ、国家のロジックを認めることをかたくなに拒否てきしたのであった。ここに戦後の進歩的思潮の欺瞞があった。

 つまり、常日頃から国家の解体や、国家にとらわれない市民を唱える左派が「侵略に対する反省と謝罪」という問題になると国家というものを強く意識しているのだという。

 見事な指摘である。確かに、国家よりも個人を優先するのであれば、現代に生きる我々が過去のことにたいして贖罪意識を持つ理由など全くない。我々は国家や共同体、そしてそれが背負ってきた歴史などとは一切無関係なのだから。にもかかわらず過去に対する反省と謝罪を要求するというのは、意識的にせよ無意識的にせよ、国家と我々は切り離すことのできない関係にあるということを認めていることになる。我々は国家とその歴史を引き受けているからこそ過去のことに思いを馳せるのである。

 したがって、左派が持ち前の「個人の論理」を唱えるのであれば、「侵略に対する反省と謝罪」に関しても同様にしなければならないだろう。「私は日本という国などに全く関係していないのだから、歴史なんて知ったことではない。なぜ私が謝罪しなければならないのか」。これが本来なら左派が主張するべきことではないか。仮に謝罪をするにしても、その主体は国家ではなく、侵略に加担した個人であるべきである。

 以前、護憲についての左派の論理は性善説と性悪説が混在すると指摘したが、またしても左派のダブル・スタンダードが露呈してしまった。左派はこの指摘にどのように反論するのだろうか。


(坂木)