2011年10月7日金曜日
リア充論
世間は東京大学の秋入学について囂しく議論しているようだが、私はあまり興味がない(笑)
というわけで今回もまたマイペースに投稿させていただく。
さて、今回は「ノリがいい」ことの大切さについて。
先に断っておくが、僕はノリが悪いタイプである。少し深い意味で。
例えば、遊びに誘ってもらっているのに断るとか、会話に乗ってこないという意味ではない。
むしろそういった意味では僕はかなりノリのいい方だし、現に皆からノリが悪いと非難されたことは皆無である。
僕のノリの悪さは、身体性にある。
軽快に走ったり、飛び跳ねたり、歌ったり、踊ったり、一発芸をみんなの前でしたりする能力。
かつては、そういうノリの良さを備えていたはずなのであるが(そのままいけばおそらく今頃僕はリア充であっただろう)いつごろからか(おそらく高校1年頃)そういう軽やかさが消えていた。容姿や言動とのギャップで心理的にキツイという側面が大きいのかもしれないが(高校時代は容姿は良かったらしい)、それにしてもなぜ、そのような感じになってしまったのだろうか。
ある発言に対して強迫的に問い詰めるような言動をする者がたまにいる。
いわゆる「地雷がある」気難しい方。このような人間は相手の発言に対して寛容になる必要があるだけでなく、自らの基準のズレを認識するべきであろう。とはいえ、僕が尊敬する東浩紀もそうなので、一概にそれが悪いとは言わないが、、、まあそれを公衆の面前でやられた日には言われた側の立つ瀬がないというものだ。これも、無知の知論と同じで、自分ではなかなか気づかないのであろう。そしてそのような振る舞いが他者の心に少しだけ重りを加えていることにも。
こういう人種は至るところに散見されるが、統計的にみても有意に「非リア充クラスタ」に多いように思われる。
つまり、次のようなメカニズムが考えられる。
非リア充が多いクラスタに所属する
↓
他人に社交性において「悪影響」を及ぼす因子を持つ分子が一定数存在
↓
そいつらが社交的な分子を非社交化(この段階は社交的な分子にとって極めて過酷)
上に挙げたのはあくまで「悪影響」の一例であり、他にもいろいろなタイプが存在するだろう。
もう少し詳細に段階区分すると、概ね以下のようになる。
(1)社交的分子の精神的な非リア充化(初期)
①人に会うのが辛くなる(引きこもり的要素の習得)
②何事にもやる気がなくなる(ニート、鬱的要素の習得)
③悲観的、ネガティブな思考回路の形成(自発的非リア充プログラムが完全にインストール=内面化されてしまった段階)
(2)社交的分子の身体的な非リア充化(中期)
①挙動不審(アスペ的身体の獲得)
②身体能力の低下(体育会的素質の減退)
③仕草がおかしくなる(非リア充的身体の定着)
(3)非リア充の完成(末期)
○非リア充化後のパターン分化
①ネトウヨ化(実存の維持を他者に対する攻撃性で代替)
②宗教家化(絶対性、超越性にすがることで実存を安定化)
③ネラー化(2chなどで同じような人種と戯れ慰め合う)
④鬱化(何事にもやる気が見いだせない、あるいは、リア充的ライフスタイルの代替案が見いだせないようなIQが低めな者に多いと思われる。そもそも頭の良い者はすぐに打開策を見出し、リア充に復帰する確率が高い。ただし、頭がいいからといってリア充であるとは限らない。これは上のメカニズムとは 別のルートで非リア充になっている者たちだからである。例:厨二病、DEATH NOTEの月)
⑤自殺(④の成れの果て)
ここに示した非社交化プロセスは実は普遍的に、様々な事象に共通して散見される。つまり、非リア充になるプロセスばかりではない。いじめられた人間はおそらくこのような道をたどるであろうし、不倫された専業主婦の悲しき妻もまた同様の道をたどるであろう。 おそらく社会に絶望した人間ならば必ずこのような段階経過を経て、社会の外に放逐されてしまうのだ。
それでは、ここには救いが存在しないというのか、、、 (文責:gerira)