このタイトルは、僕が尊敬する内田樹氏の文章からの引用である。
今回の投稿は「情報強者たれ」シリーズの上級編という位置づけである。
例えば、誰かが、 「君は優秀だな、彼我の能力の差に愕然とするわ。君の才能に嫉妬やね。」
と言ったとする。よもやここまで露骨な表現をするような方はさすがにおられないと思うが彼は本当に心の中でそのように思っているだろうか。
もちろん、そんなことは毛頭ない。では、彼はこの発言をすることで意識的であれ 無意識であれ相手に何を伝えようとしているのか。
殊に人は自分のことを自慢することを嫌う。日本人においてその傾向は顕著だ。そういう文化から見れば、たしかに相手を立てるこの発言は謙虚であろう。けれども、この発言の裏には「私は自分のことを自慢しない極めて謙虚な人間である」という自慢が隠れているのだ。
同様に、「君は頭がいいね」という発言には「頭がよくても他のことは自分には負けているけどね」という係り結びが、「君はイケメンだね」という発言には「顔はいいけど僕の方が性格はいいけどね」という係り結びが往々にして隠れているものだ。
これはものすごくわかりやすい例であるが、普段の何気ない会話でさえも必ず無意識にその発話者の動機(motivation)が隠れている。それは、当の本人でさえも気づいていない場合すらある。いやそちらの方が大多数だろう。
「今日僕飲み会なんだ」誰も聞いてないのにそんなことを言う奴って結構いる。どうやら彼は「自分はプライベートでも充実してる大学生なんだぜ!」ということをみんなに知ってもらいたいらしい。
「昨日はいい映画をみた」彼はインテリだと思われたいのだろう。
「俺、ミスチル好きなんだ」いい奴、わかる奴とでも言われたいのかしら。 「私の友達、AKBの敦っちゃんに似てるんだ」彼女は自分が宮崎あおいに似ていると思っているようだ。
そしてぼくがこの文章を綴っているのもまた、、、
mixiやtwitterのTLを見ていると面白い。こんな鼻息の荒い自意識が洪水のように広がっているからだ。
誤解しないで欲しい。僕は批判しているのではない。発言の裏の意図(それも無意識に付随してしまう、、、)など消すことは不可能なのだから。
近代社会とは常にそのような自意識と付き合うことである。
日本の近代文学は自意識との闘争を選んだ。江藤淳は自意識との闘争に破れ自ら命を絶った。
高度経済成長期、日本人は自意識を昇華させた。働くことで自意識を忘れようとした。
そんな「健全な」試行錯誤が疲労した現在。我々に残されたのは自意識を「飼い慣らす」ことであった。要するに管理してしまおうと。
ジル・ドゥルーズは自意識を欲望に読み替え、欲望を中心に世界を捉え、現代社会が欲望を管理することで成立していると看破した。
現代は自意識=欲望を露出=可視化させることで、自意識=欲望に足枷をした。
ちょうど、自然の摂理が光速を超える存在を許さないように足枷したのと同様に。
太宰治のような自意識の塊はもうこの世界に存在し得ない。システムはそのようなバグを即座に見つけ 無害化してしまう。
欲望はシステムによって計算され処理され消費される。それは欲望に値札かついたから可能になった。欲望はテクノロジーによって場所の制約からある程度自由になったのだ。その途端、自意識と欲望はもはや同じものではなくなった。自意識は本人のみが所有するものであるが、欲望は他者と共有して 初めて欲望となる。ラカンの「欲望とは他者の欲望である」という言葉はあまりに有名だ。
「あなたはそれを言うことによって何を言いたいのか?」この問いを携えて人の言葉に、そして自分が発する言葉に耳を傾けてみよう。欲望のエコノミクスが見えるはずだ。
よもや薄ら寒くなるのは私一人ではあるまい。 (文責:gerira)