2011年10月22日土曜日

護憲派の矛盾

 最近、憲法9条改正問題に関して改憲派の観点から調べているのだが、学術書は圧倒的に護憲派からの主張が多く辟易している。彼らの気違いじみた論理には滑稽さと気持ち悪さを感じざるを得ない。既にこの問題に関してはさまざまな議論がなされ平行線を辿っているが、私の感じる所を述べたい。

 護憲派に多い主張のひとつが「外交努力」である。武力で対外問題を解決するのではなく、外交で解決するべきだという論理だ。確かに外交は大切だが、この手の論理に欠落しているのは、外交力と武力は車輪の両輪だということだ。丸腰の相手の言うことなど誰がきくというのか。よっぽどのお人よしならまだしも、自国の利益の確保に常に鎬を削っている国際社会では通用しない。なぜ中国が毎年軍拡を続けているのかを考えれば一目瞭然だろう。何も中国は戦争をしようとしているのではない(局地的紛争は十分あり得るが)。強大な軍事力を背景に自国に有利な外交を実現するのが目的だろう。

 こうした護憲派の外交努力理論は性善説を採用しているといってよい。じっくり話せば相手も理解するだろうと。しかしひとたびその視線が日本国民へと向けられると、性善説は一転、性悪説へと豹変する。憲法を改正すると再び日本は軍事大国となり、戦争を起こすという認識がそれだ。なぜ諸外国の人々は話し合いを好む平和的民族なのに、日本人だけは武力を持った途端戦争を起こす好戦的な民族というのかまことに不可解としか言いようがない。護憲派の認識では、人間は過去から学び、戦争を起こさないようにする能力を持っているのではないのか。にもかかわらず、日本人だけが戦争を繰り返すというのは民族差別に他ならない。

このように一方では人間理性を信奉しておきながら、一方ではそれを否定する護憲派の論理は破綻しているのである。

(坂木)